徳川家康の伊賀越え、天下人になる前の一番弱い3日間

徳川家康 伊賀越え 雑学・豆知識
この記事は約14分で読めます。

「神の君」と呼ばれ、天下人にまで上りつめた徳川家康
江戸幕府を開き、

260年以上続く太平の世の礎を築いた人物として、
誰もが知る戦国武将です。けれどその生涯の中には、

死を覚悟し、取り乱した瞬間もありました。
それが今回取り上げる伊賀越えという、

わずか3日間の逃避行です。
教科書では数行で片づけられてしまうこの出来事に、

実はとても人間らしい家康の姿が隠れています。
後の世で「神の君」と崇められる人物にも、

弱さやためらいがあった。
そう思うと、

歴史上の偉人がぐっと身近な存在に感じられます。
今回は徳川家康の伊賀越えを、

史実と伝承の両面から掘り下げてみたいと思います。
単なる歴史の一場面としてではなく、

一人の人間が極限状態でどう振る舞ったのかと
いう視点で読んでみてください。


「スポンサーリンク」

本能寺の変、家康を襲った突然の絶望

天正10年6月2日、
西暦でいう1582年6月21日の未明。京都の本能寺で、

織田信長が家臣・明智光秀の軍勢に
討たれるという事件が起こりました。

世にいう「本能寺の変」です。
日本史上、最も有名な事件のひとつと言ってよいでしょう。

この一報が届いたとき、
戦国の勢力図は一夜にして塗り替えられることになりました。

家康は、信長の同盟者として堺にいた

このとき家康は、
京都からほど近い堺の街に滞在していました。堺は当時、

貿易で栄えた自治都市として知られていました。
戦の緊張から離れ、

文化や商業の香りに触れる機会でもあったはずです。
信長にすすめられて上方見物を楽しんでいた、

ちょうどその矢先の出来事でした。
武田家を滅ぼした戦功へのねぎらいの意味も

込められた旅だったといわれています。穏やかな時間が、
一瞬にして命がけの逃避行に変わってしまう。

人生の予測しがたさを、
これほど象徴する出来事も少ないかもしれません。

信長は家康にとって、長年の同盟者であり、
ある意味で最大の後ろ盾でもありました。

その信長が、突然この世からいなくなる。
家康が受けた衝撃は、

想像するだけでも計り知れないものだったはずです。
信頼していた人が突然いなくなる。その経験は、
時代が変わっても誰にとってもつらいものです。

味方のいない京都近辺、それは死地だった

信長を失った今、
家康の周りにいるのはわずかな供回りだけでした。

大軍を率いた華やかな行軍とはまったく違う状況です。
明智軍がいつ自分たちにも矛先を向けてくるか、

まったくわからない状況です。頼れる後ろ盾を失った不安は、
想像以上に重かったはずです。

さらに、本能寺の変の混乱に乗じて、
落ち武者を狩る野盗も各地に出没していました。

「落ち武者狩り」と呼ばれるこの行為は、
身分の高い武士を襲い、金品や武具を奪うというものでした。

家康一行にとっては、明智軍だけでなく、
こうした野盗たちも警戒すべき相手だったのです。

味方のいない土地で、四方を敵に囲まれているに等しい。
それが当時の家康の立場でした。

ほんの数日前まで、
天下人の同盟者として安心して旅を楽しんでいたはずなのに、
状況は一変してしまったのです。


「スポンサーリンク」

家臣に説き伏せられて、生きる方を選んだ

信長の死を知った家康は、
大きく取り乱したと伝えられています。

普段は冷静沈着な武将として知られる家康にしては、
珍しい姿だったといえます。

「京都に上り、追腹を切る」と言い出した家康

家康はこのとき、「京都に上って、
信長公の後を追って自害する」と主張したといいます。

周囲が止めなければ、本当に実行していたかもしれない。
そう思わせるほど、

家康の様子は切迫していたと伝わっています。
それほど強い覚悟がその言葉には込められていたのでしょう。

普段は冷静な人物ほど、
一度崩れるとその反動も大きいものです。

信長という大きな存在を失った喪失感が、
どれほど深いものだったかが伝わってきます。誰にとっても、

支えを失う経験は簡単に受け入れられるものではありません。
それでも人は、少しずつでも前を向いていけるものなのです。

一時的にでも死を選ぼうとするほどの絶望を、
家康は味わっていたのです。

その心の傷は、簡単には癒えるものではなかったでしょう。
それでも家康は、決して歩みを止めませんでした。

いわゆる「追腹(おいばら)」
主君の死を追って殉死することです。

戦国の武士にとって、
主君への忠義を示す究極の形とされていました。

家康ほどの人物が本気でそれを口にしたという事実に、
当時の緊迫感がにじみ出ています。

後の天下人からは想像しにくい行動ですが、
それだけ衝撃が大きかったということでもあります。

本多忠勝たちが、家康を引き止めた

この決断を止めたのが、
本多忠勝をはじめとする家臣たちでした。

ここで命を絶つことは、
三河の家臣や領民を見捨てることに等しい。

そう本多忠勝は家康に説いたと伝えられています。
感情的な決断ではなく、

残された者たちの生活を第一に考えた言葉でした。
この一言が、

歴史の流れを変えたと言っても過言ではないでしょう。
そう説得された家康は、

死ぬことではなく生き延びて三河へ帰ることを選び直します。
この決断がなければ、

歴史はまったく違う形になっていたはずです。
私たちが知る江戸時代も、

まったく違う姿だったかもしれません。一つの決断の重みを、
あらためて感じさせられます。

感情に流されそうになったとき、
そばで冷静に声をかけてくれる存在がいる。

それは家康にとって、何よりの救いだったはずです。
孤独ではなかったことが、

きっと何よりも大きな力になりました。
それがどれほど大きな意味を持つかを、

この場面は教えてくれます。
強く見える人ほど、実は誰かに支えられているものです。

それを忘れずに、日々を過ごしていきたいものです。
この場面こそ、

伊賀越えという物語の本当の出発点だったのかもしれません。
逃避行の道のりそのものよりも、

「生きる」と決めたこの瞬間にこそ、
本当のドラマがあったように思えます。絶望の中で、

誰かの言葉によって踏みとどまれるかどうか。
それは現代を生きる私たちにも、

どこか重なる部分があるように感じます。
大きなショックを受けたときほど、

一人で判断するのではなく、
信頼できる誰かの声に耳を傾けたいものです。


「スポンサーリンク」

わずか30人、3日間の逃避行の道のり

覚悟を決めた家康一行は、
三河をめざして歩き出すことになります。

ここから始まるのが、歴史に名を残す命がけの逃避行です。
ここまでの決断だけでも、

すでに大きな物語が描かれていることに気づかされます。
ここから先の道のりも、決して平坦ではありませんでした。

普段の行軍とはまったく違う、
息をひそめるような道のりだったに違いありません。

一歩進むごとに、命の危険と隣り合わせだったのです。
それでも歩みを止めなかった一行の強さが伝わってきます。

その先に、新しい歴史が待っていました。
家康の物語は、まだここから始まったばかりだったのです。

その先の道のりについては、
また別の機会にゆっくり触れてみたいと思います。

最後までお読みいただき、
誠にありがとうございました。
また次の記事でお会いできればと思います。

たった3日間で駆け抜けた逃避行

伊賀越えが行われたのは、
天正10年6月2日から6月4日までのわずか3日間でした。

一行の人数は、
たったの30名余りだったと伝えられています。

本多忠勝や酒井忠次といったのちの徳川四天王も、
この逃避行に同行していました。

主従一体となって危機を乗り越えようと
する姿がそこにはあったのです。

のちに徳川政権を支えることになる人材が、
すでにこの時点で家康のそばに集まっていました。

普段であれば、
大名にふさわしい大行列で移動していたはずの家康が、

この時ばかりは違いました。目立たぬよう、
身分を隠しながら山道をひたすら進んでいく。

その姿は、のちに天下人となる人物とはと
ても思えないものだったでしょう。

確実には分かっていない、逃避行のルート

河内の尊延寺村から山を越え、
山城の宇治田原へ、そして近江の信楽へ。

いずれも険しい山道が続く地域として知られています。
不慣れな土地を地元の案内人を頼りなが

ら進んでいったと考えられています。
そこから甲賀の南部、伊賀の北部をかすめるように抜けて、

6月4日に岡崎城へたどり着いた。
これが通説とされるルートですが、

実は正確な経路は今も確実には分かっていません
山道を進みながら、

いつ敵に見つかるかわからない緊張の連続だったはずです。
物音ひとつにも神経をとがらせなが

ら歩き続けたことでしょう。食料や水の確保も、
決して簡単なことではなかったでしょう。

道中で協力してくれた地元の人々の存在も、
決して忘れてはならないでしょう。

普段は大名として不自由のない暮らしを
していた家康にとって、

この3日間はまさに未知の体験でした。400年以上前の、
命がけの逃避行です。

当事者たちが詳細な記録を残す余裕など、
なかったのかもしれません。

詳細な記録がすべて残っているわけではないというのも、
無理のないことかもしれません。


「スポンサーリンク」

「服部半蔵が助けた」は本当だったのか

伊賀越えのエピソードとして特に有名なのが、
服部半蔵の活躍です。

忍者が家康を助けた、という有名な逸話

伊賀の忍者たちが家康一行を道案内し、
無事に三河まで送り届けた。

地形に詳しい忍者たちが、
危険を察知しながら安全な道を選んでくれた。

そうした専門知識を持つ人々の存在が、
逃避行の成功に大きく貢献したと考えられます。

そんな物語は、
どこか胸が熱くなるような魅力を持っています。

史実かどうかを超えて、
人々の心に残る価値のある物語だと感じます。

忍者と武将が力を合わせて危機を乗り越えるという構図は、
物語としても非常に人気があります。だからこそ、

この逸話は何度も形を変えて語り継がれてきたのでしょう。
そんな逸話は、時代劇や小説でもたびたび描かれてきました。

忍者という存在の神秘性やかっこよさも相まって、
多くの人の心を惹きつけてきた物語です。

家康と忍者たちの絆を描いた創作作品は、
今でも数多く生み出され続けています。

服部半蔵がこの功績によって徳川家に
重く用いられるようになった、
という話も広く知られています。

実はこの逸話、成立はずっと後だった

ところが、この「伊賀者が家康を助けた」と
いう話が文献に初めて登場するのは、

享保11年(1726年)のことです。
本能寺の変からなんと140年以上も
にまとめられた記録なのです。

この時間の隔たりを知ると、
逸話の受け止め方も少し変わってくるのではないでしょうか。

歴史学者の藤田達生氏は、
この逸話について興味深い指摘をしています。

長年信じられてきた通説に対して、
新たな視点を投げかける研究は、

歴史学の面白さそのものです。
実際に家康を助けたのは伊賀衆ではなく、

甲賀衆だったのではないか
というのです。この指摘が正しいとすれば、

私たちが慣れ親しんできた物語は、
大きく塗り替えられることになります。

つまり本来は「甲賀越え」と
呼ぶべき出来事だった可能性がある、

ということです。甲賀と伊賀は隣り合う地域で、
どちらも忍者の里として知られています。

それぞれに独自の忍術と組織を
持っていたことで知られています。

時代が下るにつれて、どちらの功績として語り継がれるかが
入れ替わっていったのかもしれません。

私たちが「常識」だと思っていることも、
掘り下げてみると意外な発見があるものです。

伝承が生まれた背景にも、理由があった

なぜ後になって、
伊賀衆の功績として語られるようになったのか。

この疑問こそが、
歴史をより深く理解するための入り口になります。そこには、

江戸幕府の中で伊賀者としての地位を高めたいと
いう思惑があったとも考えられています。

歴史の記録には、
その時代を生きた人々の思いが色濃く反映されているのです。

歴史上の出来事が、
後の時代の都合によって少しずつ形を変えていく。

それはある意味で、歴史が生きている証でもあります。
そう考えると、

歴史の「定説」というものの奥深さが見えてくるようです。
教科書に載っている内容も、

実は後の時代の解釈が色濃く反映されていることがあります。
そのことを知っておくだけでも、

歴史との向き合い方が変わってきます。一つの出来事にも、
いくつもの見方があると知ることができるからです。

そう思うと、歴史の勉強がまた少し違った角度から
楽しめるようになります。

年号や出来事をただ暗記するだけでなく、
その裏にある物語を想像してみる楽しみです。

誰かが語り継いだ物語には、
その時代ならではの思惑や事情が隠れているものです。

それを知ったうえで物語に触れると、
また違った味わいが感じられます。

史実と伝承、その両方を楽しむことが、
歴史を味わう醍醐味なのかもしれません。


「スポンサーリンク」

この3日間が、後の”天下人”家康をつくった

伊賀越えは、
家康の生涯における最大級の危機の一つとされています。

三方ヶ原の戦いでの敗走など、
家康にはほかにも語り継がれる苦難の経験があります。

けれど伊賀越えほど、
死を身近に感じた出来事は少なかったのではないでしょうか。

この経験を経て、家康という人物の輪郭がより明確に
なっていったように感じます。

慎重すぎるほど慎重な性格の理由

家康はのちに、
非常に慎重で用心深い人物だったと言われています。

石橋を叩いて渡るようなその性格は、
もしかするとこの伊賀越えの経験が

影響しているのかもしれません。
信長という強大な後ろ盾すら、一瞬で失われてしまう。

そんな経験をした人が、物事を安易に信じすぎないように
なったとしても不思議ではありません。

家康はその後、豊臣秀吉が天下を統一してもすぐには動かず、
じっと機会を待ち続けました。

その粘り強さの原点にも、
この伊賀越えの経験があったのかもしれません。

味方だと思っていた道が一瞬で死地に変わる。
信頼していたものが突然崩れ去るという経験は、

人の心に深く刻まれます。
その痛みを知っているからこそ、

家康は物事を慎重に見極めるようになったのでしょう。
そんな経験をした人が、
その後の人生で慎重にならない方がむしろ不思議なことです。

死を覚悟したからこそ見えたもの

追腹を切ろうとした家康を、
家臣たちが必死に引き止めた。

その必死さの裏には、
主君を思う深い忠誠心があったはずです。

単なる主従関係を超えた、
人と人との強い結びつきがそこにありました。この出来事は、

家康が一人ではなかったことを何より物語っています。
どれほど大きな絶望の中にいても、

支えてくれる人がいれば踏みとどまることができる。
これは400年前の武将だけでなく、

今を生きる私たちにもそのまま当てはまる真理です。
伊賀越えという逃避行そのものよりも、

実はこの引き止めの場面にこそ、
一番大切な意味が込められているように思います。

家康一人だけの力では、
決してこの危機は乗り越えられなかったはずです。

本多忠勝たちの言葉、そして道中を支えた家臣たちの存在。
その一つひとつが積み重なって、

のちの徳川幕府250年と
いう長い歴史につながっていったのです。


「スポンサーリンク」

現代の私たちが、伊賀越えから学べること

400年以上前の出来事ですが、
そこには今の私たちにも通じるものがあります。

時代がどれほど変わっても、
人の心の動き方は
それほど大きく変わらないのかもしれません。

絶望した日ほど、一人で決めない

家康がもし、あのとき誰にも止められずに命を絶っていたら。
徳川幕府というその後の歴史そのも

のが存在しなかったかもしれません。
そう考えると、

一つの決断がどれほど大きな影響を持つかがわかります。
私たちの日常の選択も、その瞬間には気づかないほどの意味を

持っているのかもしれません。
大きな絶望に襲われたとき、

すぐに答えを出さないこと
これは簡単なようで、実際にはとても難しいことです。

感情が大きく揺さぶられているときほど、
人は極端な結論に飛びつきやすくなります。

だからこそ、一呼吸置くことの大切さを、
家康の物語は教えてくれます。

誰かの言葉に耳を傾けてみること。
それは弱さではなく、

むしろ大きな強さの表れなのだと思います。
一人で抱え込むよりも、誰かと一緒に考えたほうが、

見える景色は広がります。
それだけで、その後の道筋が大きく変わることがあります。
家康の物語は、その好例を私たちに示してくれています。

「伝説」の裏側を疑ってみる面白さ

服部半蔵の逸話のように、
語り継がれてきた話が必ずしも事実そのままとは限りません。

それでも、その伝承が生まれた背景を想像してみることには、
別の面白さがあります。なぜその話が生まれたのか、

誰がどんな目的で語り継いだのか。
そうした視点で歴史を眺めると、

これまでとは違った発見に出会えるかもしれません。
歴史上の人物・南方熊楠の逸話にも

似たような「意外な裏側」があります。
一見すると突飛に思える人物像も、

背景を知ることでまったく違う見え方をしてきます。
南方熊楠、実は”変人”の裏に隠された天才の顔があった
もあわせて読んでいただくと、
歴史上の人物の見え方が少し変わるかもしれません。

家族の記録から人物像を辿るという意味では、
伊能忠敬の子供は何人?地図の陰にいた家族の話
も興味深い視点を与えてくれる記事です。


「スポンサーリンク」

よくある疑問に、ひとつずつ答えます

Q. 伊賀越えの後、家康はどうなったのですか

無事に岡崎城へたどり着いた家康は、
すぐに軍を整えて明智光秀を討つべく動き出します。

命からがら逃げ延びた直後にもかかわらず、
すぐさま行動に移すあたりに、

家康の武将としての強さが表れています。
ただし、その前に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が

光秀を討ち取ってしまいました。
いわゆる「中国大返し」を経て、

秀吉が一足先に光秀を討ち果たしたのです。
もし家康が先に明智光秀を討っていたら、

その後の歴史はまた違う展開を見せていたかもしれません。
結果として家康は、旧武田領を手に入れる形で勢力を

拡大していくことになります。
ピンチをきっかけにかえって勢力を伸ばしたという点も、
家康らしいエピソードといえるでしょう。

Q. 「神君伊賀越え」という呼び方の意味は

「神君」とは、家康を神として敬う江戸時代の呼び方です。
江戸幕府が続く中で、家康の数々の危機は神格化された物語

して語り継がれるようになりました。
伊賀越えも、

その代表的なエピソードのひとつとして扱われています。
物語が語り継がれるたびに、

少しずつ脚色が加わっていくのは、
歴史上よくあることでもあります。

Q. なぜ今、伊賀越えが注目されているのですか

大河ドラマなどの映像作品で取り上げられるたびに、
この逃避行のドラマ性があらためて注目を集めています。

史実と伝承が入り混じったこのエピソードは、
描き方次第で何通りもの物語になり得るのです。


「スポンサーリンク」

まとめ

今回ご紹介した徳川家康の伊賀越えは、
ひとことで言えば戦国最大級の危機を、

仲間の支えによって乗り越えた物語でした。
「絶望の中でも、
支えがあれば踏みとどまれる」
という物語でした。

わずか3日間、たった30人の逃避行の裏には、
死を覚悟した家康と、

それを引き止めた家臣たちの姿がありました。
正確なルートも、服部半蔵の逸話の真偽も、

今も謎に包まれたままです。
それでも、この物語が今なお多くの人の心を惹きつけるのは、

そこに人間らしいドラマがあるからでしょう。
服部半蔵の逸話が後の時代に形作られたものだとしても、

それは変わりません。
そこに込められた「誰かに支えられて生き延びた」と

いう本質は変わらないのです。史実がどうであれ、
その本質にこそ、私たちが受け取るべき教訓があります。

大きな絶望に襲われたとき、
一人で抱え込まず、周りの声に耳を傾けてみる。

400年前の家康の姿から、
そんな小さな知恵を受け取っていただけたら幸いです。

もし今、大きな不安や絶望の中にいる方がいたら、
どうか一人で抱え込まないでください。

誰かに話すこと、誰かの声に耳を傾けること。
それが、次の一歩を踏み出すための大きな力になるはずです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました